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副院長のつぶやき
副院長 林 行雄
本能寺の変:その2
2015年9月8日 つぶやき77
少し、朝夕が過ごしやすくなりました。トンボが飛んで、セミの鳴き声も変わり、秋の足音が確かなものとなりつつあります。いつも、本題の前の前置きが長すぎるとこの欄の校閲者のオペ室師長に言われています。挑発するつもりはないですが、今月も結構長めの前置きですが、本文も負けないくらい長いです。
サッカーの天皇杯です。ちょっと前まではその決勝戦は元旦のイベントでした。実は8月29, 30日にその1回戦がありました。Jリーグのクラブに各都道府県代表が加わってトーナメントで競うのですが、その県代表に目を見晴らさせるチームがありました。山形県と徳島県の代表が山形大学医学部と徳島大学医学部のサッカー部だったのです。大学や時には高校のチームが県代表と言うのは珍しい事ではありませんが、医学部のチーム(もちろん選手は各大学医学部の学生さんです)は過去にあったのかな、記憶にはありません。どの大学にも当然、サッカー部はあるでしょうが、実は医学部内にも運動部が結構(陸上、水泳、野球、サッカー、テニス(硬式、軟式)、バスケ、バレー、卓球、ゴルフ、剣道、柔道、ボートなどなど結構そろっています)あって、毎年夏休みには東と西に分かれて医学部生の全国大会があります。それぞれを東医体、西医体といい、私が学生のころには既にありました。よく言われる表現を使えば、医学部生の甲子園です。ただ、所詮医学部生の集まりですので、それほどのレベルではなく、大学全体のクラブとは比べ物にならないというのが私達のころのことでしたし、現状も変わっていないと思いっていましたので、いやいや、驚きました。残念ながら、山形大学医学部はモンテディオ山形に1-7(でも、先制したのは山形大学でした)、徳島大学医学部は広島流通経済大学に0-2で敗れてしまいました。でも、医学部のチームにJ1がお相手するなどは天皇杯ならではと言えます(もし、徳島が勝っていたら2回戦の相手はサンフレッチェでした)。個人競技では一人のエースがチームを変えることもあるでしょうが、団体競技で、それもサッカーは難しいと思います。ただ、それだけいいチームであるなら、来年もまた、という楽しみがありますので期待したいです。(オペ室師長の批評:このくだりいらんでしょう。私:でも来月では話題として遅いし)

それでは、本題、明智憲三郎さん著の”本能寺の変 431年後の真実”です。この本は結構、長編ですので、ポイントのみをかいつまんでいきたいと思います(それでも結構長くなります)。まず、主要登場人物です。当事者の織田信長、明智光秀に後に天下を取った豊臣秀吉、徳川家康、は必須ですが、これにもうひとり陰の主役がいます。細川藤孝。歴史を少しご存じの方ならこの人物はわかると思います。室町幕府最後の将軍、足利義昭の側近で、のちに義昭を離れて織田信長に仕えた武将です。歴史上は本人よりもその息子、細川忠興の妻の方が有名です。光秀の娘で洗礼を受けガラシャとなる人物です。つまり、細川藤孝と光秀は親戚で、光秀が信頼していた武将と言えます。次に本能寺の変に至る背景を整理する必要があります。まず、明智光秀と言う人物ですが、実はその素性がはっきりしないそうです。歴史ドラマなどでは美濃の守護の名門、土岐氏の親戚で信長の正室、濃姫とはいとこ関係というものもあります。確かに土岐氏一族は間違いないようですが、濃姫との関係はどうも作り話らしい。戦国時代ですから名門の血を引いているだけでは何の役には立ちません。本書では様々な文献から光秀はもともと細川藤孝の家来で後に足利義昭に仕え、そこで頭角を現し、のちに信長の家来となり、一段と出世したと結論しています。この経歴が本能寺の変を解く1つ目の背景です。信長が実力主義であったとはいえ信長の家来となってからの光秀の出世ぶりは破格で、信長が光秀を重宝していたという事実、これが2つ目の背景。歴史ドラマなどでは秀吉は信長に”さる”といわれてとてもかわいがられていたとされていますが、信長の家来となってからの光秀の出世ぶりはそれ以上でした。光秀が信長を恨んでいたという怨恨説やそれにまつわる話は本書では証拠のない作り話と一笑に伏しています。
次に、本能寺の変の年の初めに信長は武田氏を滅亡させています。信長にとって東の一番の脅威は武田信玄でしたし、その亡き後の武田家を滅亡させることで天下取りに大きく前進したと言えます。この結果、東の脅威の備えとしていた徳川家康との同盟が実質的な価値がなくなったことが3つ目の背景です。4つ目は信長がすでに家督を長男の信忠に譲り、天下統一後の長期政権を見据えていたこと、そのために信長はその3人の息子に近畿から東海の土地を与え、家臣には遠征をさせて奪った土地を与えるという露骨な政策を行いつつありました。そして5つ目は最近、歴史検証番組でも取り上げられるようになった光秀と土佐の長宗我部元親の親密な関係。もともとは元親が光秀の筆頭家老の斉藤利三の深い親戚にあたることです。当時、信長は長宗我部追討の兵を送る直前でした(本能寺の変の翌日に出陣が予定されていました)。つまり、本能寺の変がなければ長宗我部氏は滅亡の危機にあったのです。

さて、登場人物が揃い、時代背景をうけて、いよいよ本能寺の変が動き出します。最初の仕掛けは実は信長でした。信長の狙いはズバリ家康の暗殺でした。武田氏が滅び、家康との同盟の価値が薄れ、むしろ天下統一には邪魔な存在、さらには信長亡きあと、織田を脅かす存在と認識したからです。歴史番組では信長と家康は義兄弟のように扱われることがありますが、親子でも殺し合う戦国時代です。そんな流暢な話はあり得ないと考えるべきでしょう。歴史をみれば、天下をわが物にした後、その息子の世代で滅んだ武家の例は少なくとも3つ。平清盛、源頼朝、そして豊臣秀吉。いずれも有力な武将等を排除しきれなかったためで、その点では家康が豊臣家を滅ぼしたのも子孫の繁栄を思えば至極当然といえます。将来、邪魔になる家康を暗殺するために信長が選んだ場所が本能寺。もし、本能寺の変がなければ、翌日信長は堺見物の家康(この堺見物も信長の命令)を本能寺に招待する予定でしたし、そこで光秀の軍に殺される手筈でした。信長が少ない兵で本能寺にいたのは油断ではなく、家康暗殺のための芝居でした。信長に招かれた家康は行かざるを得ないし、信長が兵を持たないのに自分が兵を引き連れることはできないので、同様に少数の側近しか連れられなかった。そのため京都周辺で千人規模の軍を持つのは光秀ただ一人という軍事的な空白が生まれていました。これはいかに信長が光秀を信用していたか、を示しているといえます。光秀が裏切ることはない、信長には強い確信があったのでしょう。これが信長の油断だったといえばそうかもしれません。でも実際、光秀は裏切りました。そこにはいずれ光秀も遠国の領地に飛ばされ、現在の一族や家臣団や民衆(実際、当時の光秀統治の丹波、今の福知山では光秀は慕われており、名君であったことは確かなようです)と離れることへの不満と新たな領地統治の苦労、それに親しい関係のある長宗我部氏の危機を受けての決断であったようです。
そして、この謀反に談合した人物がいます。家康です。つまり、光秀はこの謀反の協力者(信長亡きあとの光秀による天下統治の協力を取り付けたようです)として暗殺されるはずの家康を頼み、家康はそのおかげで命拾いをしたわけです。そしてこの談合にはもうひとりの人物が加わっていたとしています。それが細川藤孝です。光秀とは固い親戚の絆があり、元の主家ですから光秀が頼って不思議でありません。ただ、藤孝が談合に加わっていた証拠はないそうで、状況証拠からの結論だと述べています。結果、謀反は成功し、あらかじめ分かっていた家康は準備周到、領地三河に戻りました。この家康の三河へ帰路は命がけであり、のちに”神君伊賀越え”という逸話を生んでいますし、この逃避行を助けたのが服部半蔵であった、とされていますが、これらも根拠がないそうです。光秀の謀反は順調でしたが、大きな誤算は秀吉軍が想像を超えた早さで戻ってきたことでした。そして、山崎の戦いでの敗北となります。この秀吉の奇跡的な帰軍は”中国大返し”として伝説的に語られますが、これも用意周到に準備されていたから実行できたこと、つまり秀吉は本能寺の変を知っていたというのがこの本の主張です。じゃ、誰が知らせたのか、おそらく細川藤孝であろうとしています。光秀はもともと細川家の家来でしたので、細川家の家臣団には光秀と組することへの抵抗が強く、結果光秀を見限り、秀吉にかけたというのが真相。結果、秀吉は信長の危機を承知しながら、なにもしなかった。おそらく、光秀同様、信長のもとでは遠国の領地に飛ばされるという認識だったので、信長が消えるのは大歓迎だったのでしょう。その意味では秀吉も謀反に加担したとも取れます。これが本能寺の変の真相と述べています。この筋書きはすごく納得のいくもので、本能寺の変の謎がすべて氷解します。じゃ、この話が今まで全く表面化せず、歴史の教科書にも載っていないのはなぜなのか。それは秀吉の情報操作としています。本能寺の変の真相が明らかになったら秀吉も家康も藤孝も配下の武家の信頼を失いかねない。つまり3人の秘密にしておくのが最善と暗黙の了解があったのでしょう。秀吉にしてみれば、ここは光秀一人を悪人にして、秀吉が主君の敵討ちしたことにすれば、世の評価も高まる、というわけです。江戸時代にはその話をもとにより脚色された(世間受けが良くなった)書物がもてはやされました。それが世にいう”太閤記”でしたし、それが今の歴史におおきな影響を与えているのは間違いありません。

さて、この仮説、皆様はどう思われますか。もちろん、この話のすべてに確かな文献的な裏付けがあるわけでなく、一部推量で述べられているところもありました。ただ、かなり詳細な文献の探究と考察が行われていて、単なる作り話ではありません。もちろん、歴史の真実は永遠に謎ですが、それを推し量る面白さが歴史の醍醐味だと思います。本書の内容は私がここに述べた程度ではなく、より詳細ですので、興味ある方一度本を読まれたらと思います。歴史好きには時間を忘れさせてくれます。壮大な推理小説を読んでいるようです。
この本を読む途中で、私の中にわだかまっていたもう一つの歴史の謎が解けました。それは春日の局です。名をお福といい3代徳川家光の乳母ですが、彼女は明智光秀の筆頭家老斉藤利三の娘です。つまり、本能寺の変で謀反を起こした明智一族の娘なのです。謀反人の娘を幕府の跡継ぎの乳母にすることの不自然さを感じておりましたが、これも氷解しました。家康にしてみれば光秀は命の恩人になるので、その恩返しだったと納得。もっともこの本を読んでいくと後半にはこの春日の局の話も出てきます。みんな考える疑問は同じです。
この仮説は突拍子もない話だと思われるかもしれませんが、検証の価値はあると思いますので、どこかテレビの歴史検証番組でやってほしいですね。ただ、太閤記は面白いし、吉川英治さんの新書太閤記を私も夢中になって読んだ思い出があります。歴史は学問的には真実でしょうが、俗的にはロマンがなくなるのはちとさみしいです。