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副院長のつぶやき
副院長 林 行雄
MRJ;日本プライド
2015年12月2日 つぶやき80
先月に続いて”ものづくり”の話ですが、こちらは小説でなく、現実の話です。国産の小型ジェット旅客機MRJ (Mitsubishi Regional Jet:三菱リージョナルジェット)の初飛行が先月11日に成功したことは多くのメディアが伝えました。その初飛行に多くのファン?が来られたところをメディアがインタビューを交えて映し出していました。メディアが意識的にそのようにしたかもしれませんし、平日(水曜日)の昼間だったせいもあるのでしょう、意外に女性(老若を問わず)が多かったのが印象的でした。

ものづくりの現場といえば、典型的な男性社会というのが私の認識です。もう古い話かもしれませんね。でも、まだよく聞くことですよ、そのような現場や研究所(官民を含めて)の男性は高学歴なのに出会いがなくて‐‐‐-という話。もう40年も前の話で今更何を言うか、でしょうが、私が大学生のころの工学部は医学部以上に女子学生は絶滅危惧種でした。その中でも生物系(発酵工学など)はまだちらほらでしたが、機械系や物性系は皆無と言ってもよかったように思えます。綾小路きみまろの十八番ではないですが、あれから40年、医学部の女子学生の比率も格段に増えましたし、不謹慎ですが、数のみならず質も目に見張るものがあります。おそらく、工学部等にも有能な女子学生が増えていることでしょう。彼女らが近い将来には現場のリーダーとなって、女性からの新たな視線から日本のものづくりの発展に寄与してくれることを期待しています。

さて、話を本題に戻しましょうか。工業先進国と言われる日本で空にものを飛ばす産業、飛行機もそうですが、ロケットも、世界から大きく離されていました。それは日本人が航空工学を苦手としていたわけでありません。その背景にはかの大戦の敗戦があります。戦前、アジアの小国であった日本が世界のトップクラスの航空製造技術を有しました。と言ってもその技術は当時、旅客機にではなく、戦闘機に向けられましたし、今でも航空産業と軍需産業は無関係とは言えません。当時の日本の航空工学の究極の作品がいわゆる”ゼロ戦”です。ライト兄弟が初めて有人飛行に成功したのが1903年ですから、半世紀を経ずして日本人科学者はゼロ戦という傑作を世に出したといえます。ゼロ戦がいかに優秀で、当時としては世界一の戦闘機であったことは様々書物が語るところですが、百田尚樹著の”永遠のゼロ”にはその優秀さゆえの悲劇が滔々と語られています。小説ですのでいくらかの脚色はあるでしょうが、事実に近いと私は思っています。終戦後、日本を統治したGHQは日本の航空技術を脅威ととらえ、航空産業を徹底的につぶし、研究、教育も許しませんでしたし、大学の航空工学の講座もなくなりました。それが復活したのはサンフランシスコ平和条約で日本が独立を果たした後でしたが、この空白はいかんともしがたいものがありました。戦前の名機、ゼロ戦はいわゆるプロペラ機でしたが、戦後の航空技術はジェット機が当たりまえでした。この技術の進歩から日本は完全に置いてきぼりを食らってしまいました。そんな中でも戦前の航空技術者が集められ、国産の飛行機の開発が国を挙げて行われ、1962年に世に出ました。それがYS-11です。このYS-11誕生への苦難はNHKの人気ドキュメント番組の”プロジェクトX”でも取り上げられましたので覚えている方もおられるのではないでしょうか。残念ながら、YS-11の生産は182機で終わり(結果として様々な理由で黒字転換不可となり、製造会社は解散してしまった)、今は世界のどの空にもその姿は見られません。結果だけみれば、YS-11の開発は将来への教訓のみを残し、その後国産の飛行機は半世紀の長い沈黙を余儀なくされます。それだけに今回のMRJの成功は日本の航空技術がまだまだ世界で引けを取らないことを示したといえます。

下町ロケットでもこだわっていたキーワードの一つが”純国産”です。グローバル化が進んだ今日に”国産”にこだわる意味があるのか、という疑問はあるでしょうが、世界の情勢が大きく変動する現代にあって、生活に密着したものが海外に頼らなければ手に入らないというは将来の大きなリスクだと思います。国内でやろうと思えばいつでもできるんだ、ということを国民に示すことの意味は決して小さなものでないし、それは官民一体となって進めるべき、いわば国のプライドの問題です。これは5年後の東京五輪の成功と日本選手の活躍と本質的には変わらないと思うのです。