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副院長のつぶやき
副院長 林 行雄
先見の明
2019年11月6日 つぶやき127
 大雨で大きな河川の堤防が決壊することは昭和30年代、私がまだ小学校のころまでは台風が来るとどこかであたりまえのように起こっていました。そのころは吹田市の南部の正雀(しょうじゃくと読みます。大阪の地名の難読漢字にも登場しますので念のため)に住んでいました。自宅からちょっと行くと安威川というまあまあ大きい川があり、この川は神崎川の支流で、神崎川はその後猪名川を取り込み結構大きな川になり、大阪府と兵庫県の県境を示しながら大阪湾に流れます。台風が来るとその安威川が氾濫するかも、という話が当時は盛んにささやかれました。下流が氾濫すると結構被害が大きいのでその前に安威川であえて堰を切ることもあるから吹田あたりは危ないという噂もありました。事実、小学校のころは何度か床下浸水は経験しました。ただ、運が良かったのだと思います、床上まで水が来ることはありませんでした。一番危なかったのはあと数cmで床上というところまで来たことがあり、同じ小学校の他の地域では床上まで来たところもあったらしく、翌日学校は洪水の後始末のお手伝いをしなさい、というメッセージとともに臨時休校となりました。ただ、小学校の高学年以降は不思議なことに床下浸水すら経験することは無くなりました。きっと治水がうまく機能したのでしょうし、日本の洪水対策も万全になったものと思っていました。そう思い込んでいただけに今回の台風と大雨の洪水には驚かされました。おそらく皆様も同じ気持ちではないか、と思いますが、特に多摩川の氾濫は耳を疑うものでした。

 武蔵小杉、この駅名は知っていますし、東京の人間ではないですが、どのあたりにあるかもだいたい想像がつきます。新幹線で東京に行く時、新横浜を過ぎてしばらくするとJR横須賀線と並走しますが、東京に向かって右の車窓をしばらく見ていると結構立派な駅舎が目にはいります。これが武蔵小杉、この駅を過ぎるとすぐに多摩川を渡り、東京都に入ります。実は私がこの立派な駅を見つけたのは東京からの帰阪時、夜の帳がおりたころ、窓から見ていると、明々とした駅の照明がものすごく映えるのです。新幹線は結構内陸部を走りますのでこんなところに大きな町あったけ、と思わず駅名を探しますと高速走行ののぞみからも読み取れました、むさしこすぎ。知らない地名だな、そんな名前の町あったっけ?これが第一印象です。その後JR横須賀線のこの駅ができてから大きく発展したタワーマンションの町であることを知ります。この武蔵小杉のすぐ東側を流れる多摩川は新幹線からみる普段の容貌は大きな川幅と緩やかな川に流れにそのほとんどが河川敷、当然河川敷には少年野球、大阪で言えば淀川とよく似ているし、大きさは淀川が少し大きいかなという印象。少々雨が降っても氾濫するとは想像がつきませんが、その多摩川が氾濫しました。これを大阪に置き換えれば、同じくらいの雨が大阪に降れば淀川が氾濫しても不思議ではありません。

 昔、太閤秀吉のころの大阪は今よりもっと海が近かったとされています。大阪城の西側には大きな湿地帯があり、そのため大阪城を西から大軍で攻めるのは無理だったようですし、その当時住吉大社は海に面していたとも言います。もっとちょっと昔ですが、源義経が難波の港から屋島にいる平氏に奇襲するために嵐の中船を出したとされる場所を示す“逆櫓の松(さかろのまつ)”は福島区にあり、旧阪大病院(今の朝日放送)から歩いて1分のところです。つまり、大阪市内の心臓部はほとんどが海抜の低いところです。治水が進んだとされるこのご時世でも温暖化の影響で台風等による大雨の規模は確実に大きくなっています。将来を見据えた治水をしておかないといずれ大阪も、そんな危機感を持った人は少なくないと思いますし、将来を見据えた公共工事こそ行政の腕の見せ所でしょう。

 大阪にはまさに先見の明と言える行政の賜物があります。第7代の大阪市長であった関一(せきはじめ)さんは大正の時代に今の御堂筋を計画しましたが、当時はそんな車社会ではありませんので大阪の市内に飛行場を作るのか、と揶揄されたそうです。また、彼は地下鉄にも着手。その梅田駅のプラットホームの大きさは今とさほど変わらないそうです。当時の地下鉄の車両数からすれば、全く不要なまでの大きさでしたが、そのおかげで今、御堂筋線は10両編成が可能です。将来の大阪の繁栄を見据えたようで、これこそが“先見の明”というものだ、と中学の社会科での授業の一コマ、今でも鮮明に覚えています。