武蔵小杉、この駅名は知っていますし、東京の人間ではないですが、どのあたりにあるかもだいたい想像がつきます。新幹線で東京に行く時、新横浜を過ぎてしばらくするとJR横須賀線と並走しますが、東京に向かって右の車窓をしばらく見ていると結構立派な駅舎が目にはいります。これが武蔵小杉、この駅を過ぎるとすぐに多摩川を渡り、東京都に入ります。実は私がこの立派な駅を見つけたのは東京からの帰阪時、夜の帳がおりたころ、窓から見ていると、明々とした駅の照明がものすごく映えるのです。新幹線は結構内陸部を走りますのでこんなところに大きな町あったけ、と思わず駅名を探しますと高速走行ののぞみからも読み取れました、むさしこすぎ。知らない地名だな、そんな名前の町あったっけ?これが第一印象です。その後JR横須賀線のこの駅ができてから大きく発展したタワーマンションの町であることを知ります。この武蔵小杉のすぐ東側を流れる多摩川は新幹線からみる普段の容貌は大きな川幅と緩やかな川に流れにそのほとんどが河川敷、当然河川敷には少年野球、大阪で言えば淀川とよく似ているし、大きさは淀川が少し大きいかなという印象。少々雨が降っても氾濫するとは想像がつきませんが、その多摩川が氾濫しました。これを大阪に置き換えれば、同じくらいの雨が大阪に降れば淀川が氾濫しても不思議ではありません。
昔、太閤秀吉のころの大阪は今よりもっと海が近かったとされています。大阪城の西側には大きな湿地帯があり、そのため大阪城を西から大軍で攻めるのは無理だったようですし、その当時住吉大社は海に面していたとも言います。もっとちょっと昔ですが、源義経が難波の港から屋島にいる平氏に奇襲するために嵐の中船を出したとされる場所を示す“逆櫓の松(さかろのまつ)”は福島区にあり、旧阪大病院(今の朝日放送)から歩いて1分のところです。つまり、大阪市内の心臓部はほとんどが海抜の低いところです。治水が進んだとされるこのご時世でも温暖化の影響で台風等による大雨の規模は確実に大きくなっています。将来を見据えた治水をしておかないといずれ大阪も、そんな危機感を持った人は少なくないと思いますし、将来を見据えた公共工事こそ行政の腕の見せ所でしょう。
大阪にはまさに先見の明と言える行政の賜物があります。第7代の大阪市長であった関一(せきはじめ)さんは大正の時代に今の御堂筋を計画しましたが、当時はそんな車社会ではありませんので大阪の市内に飛行場を作るのか、と揶揄されたそうです。また、彼は地下鉄にも着手。その梅田駅のプラットホームの大きさは今とさほど変わらないそうです。当時の地下鉄の車両数からすれば、全く不要なまでの大きさでしたが、そのおかげで今、御堂筋線は10両編成が可能です。将来の大阪の繁栄を見据えたようで、これこそが“先見の明”というものだ、と中学の社会科での授業の一コマ、今でも鮮明に覚えています。